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憲法記念日にそえて

2023年5月9日

今年も憲法記念日が来た。

 この日が来ると憲法について考えることになる。なぜって、憲法記念日だから。けど、ほかの祝日に対しては特別な感情をもつことはあまりない。これは未成熟なことかもしれないが改善しようとも思わない。
 憲法と聞くと、なんだか政治的なイデオロギーを感じてしまうのではなかろうか?その気持ちも良くわかる。私は美容師として生きてきた。若いころに、駅前で憲法を語るおじいさんに脅威を感じてたし。
 けれども、今では憲法記念日に特別な感情をいだいてしまう。公務員を含む法律隣接職は憲法に沿って仕事を行わなければならない。
立憲主義、、それは何よりもなんであろうが憲法に従う事。
ドグマに近しく、イデオロギーの臭いがするのは当然である。
駅前のおじいさんに脅威を感じたのは、生物として悪くない判断だったのかもしれない。それに対して今では、駅前での演説に対しては、「時間をつかって、公益のために何かを訴えている。」と興味深くみている。
 こうした対応がいいのか悪いのかはよくわからんが、偏見の皮が一つなくなったことは事実として評価できよう。「勉強」それ自体に価値があるのかどうなのか?考えることは幸せなのか?との疑問はあるのであるが、偏見を一つ減って「ごちゃごちゃしてる世界はごちゃごちゃしてるもの」と捉える力は少し身についたらしい。
 いまのところ。憲法というドグマは人類が作り出した残虐に対する概念の壁であると私は考える。そんな理解のもとに、危険を感じるのには理性が必要である。
 そうであるなら、昔おじいさんに危険を感じたのは悪くない反応だとかんじる。その口から語られる憲法ができた歴史的背景には、多くの、数えられないくらいの人が死んでいる。その血に対する反省を文言化したのが憲法なので血なまぐさいと考えてる、個人的に。
若き日の自分には本能的に耐えがたい空気があったのかもしれない。
 言葉、すなわち概念に沿って行動できるのは知能であるとするのであれば、人間は非常に能力の高い生き物であるという感想をもってしまう。ちなみにわたしは猫が大好き。
私は、人が嫌いであるが人が有する概念が大好き。結局、社会に関心があるってことで=人間がすきなのかもしれない。けれども、言っておく「飲み会にはいかない。」話があれば文書でお願いしたい。だって、みんな時間におくれる可能性があるでしょ、、。
 私達は理性的に生きなければならない。と社会はいうものの、その「程度」は明確ではない。たとえば、毎日「日経新聞を読むこと」が理性的なのか、犯罪を犯さないことが理性的なのか?に関してどのように評価するかは人それぞれである。
 「理性的」、、。
 じつは、「理性的」であれなど憲法のいうところではない。
 憲法は、国民に対して「自由に生きろ。(納税等他のいくつかの義務を除く)」としか述べていないように感じる。
 結局。「勝手にやってくれ」ってこと。
ちなみに、この「勝手」には「清く正しく生きること」も当然に含まれるので誤解しないように。要するに各々の価値観でっ生きれってこと。
 でっ、「勝手にやってる各々の意見」が民主主義なんじゃないのかね。
 (注)本稿は筆者の個人的な雑談であり、美容師業界ならびに行政書士会の意見とは無関係です。また、憲法解釈に関してはさまざまな考えかたがあります、文献にあたり各々で勝手に考えてくださるようおねがいします。
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